生まれてから中学1年生の12月まで、東京都北区にある
小さな食品市場の中にある乾物屋の娘として育った。
昭和50年代に入るまでは、日本はまだまだものを並べておけば売れる時代。
おそらくすでに流通革命は起こっていて、スーパーやコンビニが
ポツポツと東京の片隅にもでき始めた時期だろう。
それでも小学校から帰ると夕方は毎日がお祭り騒ぎのような商店街。
天井から吊るされた籠の中には、お札がいっぱい入っていたのを
記憶している。
家族8人、総出で家業を盛り上げた。
年末には父がおせち料理を仕込み、それも飛ぶように売れた。
大晦日はもちろんかきいれどき。
商売をやっている人間にとってはやりがいがあっただろうな。
そんな自営業家庭は、昭和50年代半ば以降
客足が遠のき、コミュニティもだんだんと崩れて行く。
学校でこんなことを言われた。
「お前んちの店は、古いものばかりしか売ってないって、母さんが言ってたぜ」
世間はいつの時代もそうだ。
弱いものを攻撃したがる。
そんなことをいちいち親に報告するほど
子供じゃない。
すでにうちは家族の信頼関係は崩れていたし。
毎月20万円の赤字だとか、銀行からじゃんじゃん電話があり
当座預金のお金が入ってないとか、そんな話がいっぱい
噴出。
小学校高学年になった私にとっては
どうにか逃げ出したかった。
でもタイミングは中学1年生の12月。
かなり中途半端だ。
姉は中学3年と高校3年。いいタイミングだ。
乾物屋をたたみ、昔千葉県に買った土地に、叔母と父が
ローンを組んで、家を建てることになった。
8人家族が千葉県に、逃げるように引っ越した。
新しい家でも毎日舅、姑、小姑と母の確執。
父はこれを機に、ほとんど会話をしなくなった。
ずるい人だ。素直にそう思った。
中学生の私は、母が舅、姑、小姑からなじられる
場面を毎日のように見ることになる。
苦しかった。母はもっと苦しかったのだろう。
商売に失敗したのは誰のせいでもない。
でも一番攻撃しやすい母が結局攻撃されてきたのだ。
苦しい時、本当に力になってくれるのは
誰だろう?
長姉は保育士専門学校に進学。
家にはほとんど寄り付かず、妹たちの話し相手になったり
することもない。
それどころか、いつの間にか、21歳で生き急ぐように玉の輿を見つけて結婚。
冷たい人だと思った。
次姉は高校卒業後、歴史ある結婚式場に勤務し、一流大学卒業の
旦那と結婚。次姉は心が繋がっていた。
それが少しでも救いだった。
私は・・・悲惨な中学生活だった。
いわゆる「金八先生」時代の代表のような生活だった。
家に寄り付かず、週末は集会に参加。
喫煙、毒物劇物、共同危険行為・・・ほとんどの悪事が
普通にできる環境にあった。
それでもどうにか高校に進学したものの1年生の夏休みには自主退学。
一人で生きて行く人生がスタートした。