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おせち料理 トンネルのむこうは、不思議の町でした。

お久しぶりです。

今朝、まだ寝ぼけてる長女に「アドベントカレンダー今日の取ってきて」と頼まれて、
アドベントカレンダーも折り返しという事気づき、びっくりしました!



子供部屋に飾ったアドベントカレンダーは今年も、去年のボンポワンのやつ


飾った日に写真撮ったから、日付も1日だし、中身もまだいっぱい。

中身を用意するだけでいいって本当に楽?。



行きつけのお花屋さんもクリスマスムード?

??おせち料理の手配
??年賀状の準備
??大掃除のスケジュール
??クリスマス会
??忘年会 
??姉妹の乳幼児検診、予防接種...


とりあえず家族みんな体調を崩さず、日々過ごしたいと思います。

おせち料理をエコロジーのアプローチで考えて何かいいことあるの?

心霊一言2「神道の精神とは」
「人もまた「神」なり」その1

1、お正月の意味?日本人の心


みなさま、そろそろ年の瀬を迎えることとなりまして、
何かと慌ただしい日をお過ごしのことと思います。

「年末年始も、とても忙しくて正月の気分にはなれない…」

なんて、ぼやいている人も多いのではないでしょうか。

私たちは、1月1日の元日を迎えることで、「お正月が来た」という表現をします。

1月3日までは三ヶ日
7日までは松の内

などと表現をしますが、私たちの観念では、お正月といえば、だいたいそのあたりまでを指して言いますね。


日本古来の風習では、このお正月は、年間行事の中でも、ことさら大事にしたものです。

その昔は、お正月を迎えたら、年齢を一歳足して数えました。

それを「数え歳」と言いますが、現代では「満年齢」が主流となりましたね。

その昔は「生きる」ということは「おかげさま」という、感謝の観念が強くありました。
「一年を無事に生きることができた…」
ということの喜びと、また、
「この先無事に新年を生き抜くことができるように」
と、感謝と願いを込める意味で、お正月を人生最大のイベントとして据えたのです。

医療も科学も乏しかった当時は、
「生きる」という最大行為が果たせたことを、人生無常の喜びと捉えていました。

現代の私たちと、昔の人では「命」に向き合う姿勢が、全く違ったのです。

そして、「無事に新年を迎えた」という喜びは、自分や家族だけに限らず、お隣さんや地域の人や、お殿様も家臣も、
すべての人が分け隔てなく、同じように歳をとるのだということを認識し合うことで、お互いの労をねぎらいつつ、共に称え喜ぶことで
「命の平等性」を共有したのです。



2、お正月には神様がやってくる “おもてなし”の原点「正月飾り」の意味

かつては、お正月は、各家庭に「歳神様」という神様がやってくると考えていました。

歳神様とは、「祖霊」のことで「御先祖様」のことです。

私たちの御先祖様が、一年に一回、お正月に帰って来るということです。

その歳神様のおかげで、一年を無事に過ごせたこと、
そして、歳神様のおかげで、ひとつ歳をとることができたのだと、考えたのです。

ですから、年の瀬から、大事な歳神様をお迎えするために「正月飾り」を設置したのです。

外には「門松」
玄関には「しめ縄」
客間には「鏡餅」
特別料理として「おせち」「お雑煮」など、
地域の風習によって差はありますが、それらお正月に行う特別な事柄はすべて、とても大事なお客様である
「歳神様」を迎える為のものなのです。

お正月の特別な事柄には、日本人特有の「おもてなし」の精神が宿っています。


人生上で味わいました「良かったこと」は、実は、目に見えない「神様」のお陰だと考えていました。
そしてその感謝の思いを、何らかの形に成して捧げようとする、
そんな精神を持つ日本人は、他にない特殊な精神文化を有した、世界に誇れる民族なのです。

一月は「睦月」と言います。

この言葉の由来は、お正月には遠方の家族が帰って来たり、地元地域の人が皆で集まったりして、お互い仲良くしましょう・・・という
「仲睦まじい」の意味がこもっているのです。

しかし残念ながら昨今のお正月は、ただのイベントでありまして、本来は歳神様のおもてなしのためである正月飾りやおせち料理も、すっかりその意味が失われて、
単なる「形」のみが先行してしまって、やけに派手さだけが目に付くようになりました。

そして、ひと昔前は正月三が日は休日としていた流通業なども、現代では休むことなく、平日となんら変わらない様子を見せるようになりました。

正月の三ヶ日は休日をとって、「家族と一緒に過ごそう」「お正月をお祝いしましょう」という、昔から伝わる日本の良き風習が、すっかり失われてしまったように思います。



3、神様をお祭りする心とその原点 富岡八幡宮の事件から思うこと

神様に関わる行事や催事などは、先ずは「敬い畏む心」、すなわち「畏怖の念」を持った上で、
自然と、その感情を表すための「形」「形式」が、創出されるものです。

神様を大事に思い、敬い奉る・・・という精神を、先ずは胸に深く宿さないと、大事な神様をお祭りするための行為、すなわち催事、行事の方法などの「形」「形式」が伴いません

現代のように、過去から伝承された、「形」「形式」「作法」だけを真似るだけでは、その奥に秘められた「神々へ向ける人の思い」を理解することはできません。

かつて、その「形」「形式」を編み出した作者の「心(精神)」は伝わらず、作法のみが受け継がれていくのです。
本来は、形式とともに、この作法を創り出すに至った「心」も伝わらなければなりません。
こんなことでは、何にもなりません。
心のこもっていない、意味を失った、ただのパフォーマンスになります。

神職や神主にあっても、一部の人では、
「神とは科学や医学のなかった昔の人の概念であり迷信に過ぎない」
と、そう考えている人も少なくありません。

しかし、あなた方が言う「神」とは、あなた方が大学で教わった「紙面上の神」のことで、自然界や、人の心の中に在る神は、まごう事無き実在の「神」であるのです。

この大事なことを吐き違うと、大変なことになります。

そんな考えにある人は、即刻神職を辞めて、一般企業で働くべきです。

殺人事件のあった富岡八幡宮でも、
殺した人物も殺された人も、
神主になによりも大事な「資質(心)」を欠き、
聖職者たる勤めをなおざりにして、最も戒めるべき最も愚かな行為に走ってしまったのです。
とても残念で仕方ありません。

正神の神様は、
神も人も、魂としては大差はない。
故に、神は神、人も神なのだから、神も人も大事にせねばならぬ
と、おっしゃっておられました。

そしてこうも付け加えられました。

神と人も同じ質の魂であるから、
神を敬うのであれば、
他の者も大事にせねばならぬ。
しかしまた、
己自身も一個の魂であるのだから、
己自身を敬い大事にすることができねば、
いくらうわべで、神が大事、人が大事と申しても、
自分をおろそかにしたままでは何にもならんぞ。
先ずは、己自身の中に抱える「己の魂」を敬い祭ることだ。
己の魂を清めることだ。
己を卑しく蔑んで疎んじているくせに、
神様神様・・・、と祈ってみても、
神々より「偽信仰者」と言われても仕方のないことだ」

富岡八幡宮で発生した殺人事件は、その正神の神様のお言葉そのものを表しています。

宮司も元宮司にも、
神様を大事に思い、
他者を大事にし、
自分自身も大事とするならば、
このような愚かな事件は起こらなかったはずです。

しかし恐らくは、彼らの親御さんが、その精神を彼らに教えていなかったのが、原因でしょう。

また突き詰めて申し上げると、彼らの親のまたその親も、最も大事な「信仰の基本精神」を、我が子に教示してこなかったのです。

今回の殺人事件は、そう言った先祖からの思考の間違いが過去から積み重なった上で、とうとう引き起こってしまった、凶悪な事件であるのです。
なるべくして起こった事件でありましょう。

たまたま都心部の好立地条件が整う中、神社の歴史を振りかざし、黙ってても大金が集まる仕組みにあぐらをかいて、
お金にものをあかせ、立派な社殿、豪華な住宅、人間世界の中でしか通用しない、富と栄華を誇り、他者をないがしろにしてきた歴史が、
結果として、凶悪事件を呼び寄せたのです。

ですから、事件に及んでしまったきっかけの、「間違った信仰精神」は、明らかに数代前の先祖から続くもので、
これは間違いなく「先祖因縁」というものなのです。

「歴史にあぐらをかく」という行為は、結果的に
「神様の頭にあぐらをかいて踏ん反り返っている」
ということで間違いはありません。

一般の神社でも、遠目で儀礼儀式などの祭典を見るにつけ、心を忘れ形式を重んじる「お作法」のみが先行しているようにしか見えません。

古神道の精神が忘れ去られた「骨抜き神道」と例えられたとしましても、この度の事件を鑑みた時に、神道関係者のみなさんは、反論などできようがないでしょう。

聖職者という社会的責任がある上では、一般の人のそれとは、また更に責任が重いのだということを、聖職者たる人々は重く認識すべきです。


4、形式のみが先行する現代人間社会  古神道の精神は人々の豊かな生活のために必要なこと

しかしながら、古来からの神道的な風習「お正月」の意味も、上記で述べたように、形式ばかりが先行して、すっかりイベント化してしまった現代の中では、
神道精神を教え説く立場にある者が、神の道を大きく逸脱したとしても、不思議ではありません。

そして現代では、聖職者と言われる人よりも、
一般の人々がその心に秘める「信仰精神」の方が、
神様に近いところにある事を、私は確信しております。

神道などの精神信仰は、日頃の生活に生かしてこそ、意味を持つのです。

人間世界の中で、人の世の邪気に塗れながら、もまれながら、人の世の苦労を重ねる中に、神様への信仰心が芽生えるのです。

神様は、紙面で学んだ知識では理解できません。
生活を通したなかの「心」で理解できるものです。

数多くの人と付き合い触れ合う中で、
人の“ありがたみ”を知り、
人と、もみ合う”中で、
人の心に巣食う“邪気”を感じ取ります。

『やさしさときびしさ』

相対する真逆の経験をする事で、人のやさしさが際立ちまして、
ことさらに「ありがたい・・・」と思うことができるのです。

そして、その感情からこそ、神仏を感じ取ることができるのです。

人の世に十分に関わりながら、
人の世での苦労を十分に重ねて、
その中で、人のありがたみを知る。

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